演奏家vs作曲家 ベートーヴェン
Ludwig van Beethoven
Ludwig van Beethoven (1770-1827)
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ベートーヴェンを知らない方は、先ずそこそこの年齢であればいらっしゃらないと思います。ただある意味、モーツァルトやショパンに比べると、バッハやベートーヴェンは地味で、大衆受けしない様にも思われます。例えば、2007年は没後180年、2010年は生誕240年なのですが、果たして2006年のモーツァルトイヤーの様に(日本で)騒がれるでしょうか。楽しみです。因みに、「ベートーヴェン・不滅の恋」、「敬愛なるベートーヴェン」と言う映画があります。 一方で、交響曲第九番は日本では恒例の年末行事になっています。第九を歌いたくって合唱団に入られた方も、いらっしゃるでしょう。肖像画やデスマスクに見られるベートーヴェンの顔は、画家や年代によって結構変わりますが、皆様なりにベートーヴェンの顔ってこんな顔、と言うそれぞれのイメージが結構出来上がっているかも知れません。インパクトはかなり強いと思います‥‥今更ベートーヴェン特集なんて、と言う乗りかも知れません。 そう言えば、モーツァルトコンコールやショパンコンクールは有名ですが、ベートーヴェンコンクール(ウィーンでやります。私の師の深澤先生が審査員をお勤めです。)は一般の方はご存じないかも知れませんね。 ベートーヴェンは、名曲だけでなく名言も多いでしょう。例えば、次の様な台詞が有名です。
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1770年12月16日、ボンに生まれました。ベートーヴェンの生家を昔留学中に尋ねましたが、地元のTVにインタビューされてしまいました。アナウンサーは比較的若く、日本人だと思って英語で質問してきました。ドイツ語で答えられなかったのが残念でした‥‥失礼致しました、いきなり脱線してしまいましたね。 57歳死去のベートーヴェンは、作曲家の中では恵まれない境遇にあって、ガッツで長生きしたと言えます。祖父は選帝侯の宮廷楽団の楽士長で、その七光りと言われながらボンの宮廷歌手をしていた父は、ぐれたところもあり酒に溺れた生活をしていました。ベートーヴェンを第二のモーツァルトにしようとしたのは、金儲けの為だったのか、自分の哀れな音楽的名声を再起する為だったのか、諸説あります。父は何につけても中途半端だった事もあり、ベートーヴェンは当初それ程有名ではなく、そもそもは父の代わりに音楽で一家を支えなければなりませんでした。二人の弟に対しても、どちらかと言うと兄としてではなく父代理として一生接していく事になります。彼の師は、最初はその父でしたが、20歳からはクリスティアン・ゴットロープ・ネーフェやフランツ・アントン・リースであり、そして22歳ウェーンに移ってからはハイドンやサリエリでした。 ベートーヴェンは、初期(1803年の第2交響曲まで)には古典を踏襲し、中期(1804〜1814年の第8交響曲まで)には独自の人間的な表現で浪漫派の発端を切り開き、後期(1815年〜)には人間を超えた自然との同化の道を歩みました。明瞭な境界はないものの、交響曲を聴けば、その違いは明白です。これほど克明に異なる作風を示す歴史を持つ作曲家も珍しいと思います。これは、これまでの作曲家は「商品を供給する職人」に徹していたのに対して、ベートーヴェンは「心にあるものを自分の意思で表現した芸術家」だったからかもしれません。それゆえ、ハイドンの104曲やモーツァルトの41曲に比べ9曲と少ない交響曲に、その時々の全霊を投入しようとしたのでしょう。 初期は、交響曲では第1、2番、ピアノ奏鳴曲では第1〜20番に対応します。交響曲ではメヌエット楽章をスケルツォ楽章に変える等、ハイドン、モーツァルトの音楽を真似ながらも、自分らしさを表現しようとしていました。1800年聴力の衰えが始まり、またジュリエッタとの失恋で、初期の末期には失望と苦悩がベートーヴェンを襲いました。第2交響曲は、その失望と苦悩を荒い流すものだと言われています。 革命が始まり、ナポレオンの共和主義はベートーヴェンの自由への憧憬を煽りました。第3交響曲が生まれました。この交響曲は、主題がモーツァルトの旋律と極似しているにも関わらず、主題の料理のし方において従来の壁を突き破ったものでした。中期の始まりです。この「英雄」交響曲は、後にナポレオンが皇帝に就いて「奴もただの権力主義者だった!」とベートーヴェンが失望し、ナポレオンにささげるはずのものを題名を変えたと言う逸話は有名です。中期は、交響曲ではその後第8番まで、ピアノ奏鳴曲では第27番までに対応します。交響曲で明白に聴いて取れる通り、中期のベートーヴェンの曲は、人間感情を人生の重みを背負って表現していました。歌劇「フィデリオ」で一度は失敗しましたが、1806年友人のブルンスヴィック家に奇偶しテレーゼと恋に落ち、幸せの絶頂期でした。「熱情」奏鳴曲、「運命」交響曲、「田園」交響曲は、この頃の作品です。しかしこのテレーゼとの恋も破局を向かえ、ベートーヴェンは自分の孤独を受け入れつつも克服し、後期へと向かいました。中期の末期に、交響曲第7、8番、ピアノ奏鳴曲第24〜27番を完成させ、ウェーン議会はベートーヴェンに決議を持って敬意を表しました。 甥のカルルの不良素行、不充分な年金、友人の相次ぐ死去に加え、ベートーヴェンの聴力は完全に喪失しました。またウィーンにはイタリア音楽が浸透し始め、モーツァルトやベートーヴェンに代わりロッシーニが台頭してきました。ここに至り、ベートーヴェンは完全に外界との接点を閉ざし、内面を自然の彼方に向ける事になりました。後期です。成功も名声も無視し、ベートーヴェンは自分を自然に向け、そして人間の作りえる最も複雑で、崇高な作品を書きました。2つのチェロ奏鳴曲、5つのピアノ奏鳴曲、6つの弦楽四重奏曲、荘厳美佐、そして第9交響曲でした。後期の曲の一つの特徴は、人間業では真似できるものではな事ではないでしょうか。最後の3つのピアノ奏鳴曲は天国の音楽に思えますし、第9交響曲と荘厳ミザは理想の現実だったのでしょう。ここに至り、ベートーヴェンは、人間の夢、希望、愛、苦悩、怒り、恐怖、喜び、とあらゆる感情を表現し切ってしまったのでした。「喜劇の終わり」は正に、他の作曲家の苦悩の始まりだったのではないでしょうか。 |
ベートーヴェンは、意外にも即興演奏が得意で、作曲家となる前にはピアニストでした。ナポレオン軍のドイツ侵入後の1795年3月、ベートーヴェンはブルク劇場で演奏会を成功させました。ピアニストとして売れ出したのです。当時のウィーンでは、チェンバロ奏法を踏襲したクラヴィーア奏法(軽快に均質且つ清澄な音を重視する奏法)が流行ってましたが、そこにベートーヴェンのクラヴコード奏法と北ドイツ的レガート奏法が加わり、音楽性が一回り広がったのです。 幼少の頃はクラヴィコードを用いていましたが、ピアニストになる頃にはスクウェアーピアノに切り替えました。ベートーヴェンと共に、ピアノも結構発展しました。その為、音域や構造が異なる様々なピアノ(全て貴族や製作者からの寄贈品)をベ−トーヴェンは使いました。ベートーヴェンは、楽器の中でもピアノに最も拘り、ピアノ曲は作品の中で重要な位置付けとなりました。 当時のピアノが最も発展した部分は、音域でしょう。ベートーヴェンは、時のピアノの音域を最大限に活用しました。ピアノ奏鳴曲第8番「悲愴」、第14番「月光」、第21番「ワルドシュタイン」、「熱情」等は、当時持っていたピアノの音域と楽曲の音域が一致しています。ピアノ奏鳴曲を聴けば、中期までの作品においては高音部にある高さの限界が存在する事は明白です。この高さの限界は、徐々により高い音へと進化していきました。「熱情」第三章を作曲した時のピアノは、死後リストに渡り、現在はブダペストの博物館に所有されています。 |
丁度、弟カールの病気が悪化した頃、メトロノームが世に出回りだしました。当時演奏家達は自分の好みの速度で演奏してましたので(今でも多少そうですが)、ベートーヴェンはそうはさせぬと自分の作品全てにメトロノームによる速度指示を与えました。ところが、当時のメトロノームがいい加減だったのか、あるいはベートーベンは片手間に急いで行った為間違えたのか、どうもその速度通りに演奏すると速過ぎる事が多いのです。止む無く(?)演奏家達は自分勝手な速度で演奏を続け、今日に至ったのです。天国のベートーヴェンは、地団太を踏んで(天国で踏めるかどうか解りませんが)悔しがっている事でしょう。 この頃ベートーヴェンは、メトロノーム改良に携わっている機械技師J.N.メルツェルと親しくしていました。メルテェルはメトロノームの他にパンハルモニコンという自動演奏装置を開発し、ベートーベンにその装置の為の曲を依頼したと言われています。 |
ピアニストのサイトなのに、ピアノ曲よりも先にご紹介しなければならない程、ベートーヴェンの交響曲は重要です。9しかありませんが、内容の洗練さ、深さ、濃さと言ったら! かの有名な第9交響曲は、完成されたベートーヴェンの最後の交響曲です。 建築中! 以下に、9の交響曲を一覧します。「田園」以外の表題は、後の人が付けた物です。標題音楽は当時はまだ無いに等しく、田園交響曲は標題音楽を試した物でもありました。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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ベートーヴェンは奏鳴曲を「自己の芸術的意欲を表現するシリアスな形式」と見なしており、ピアニストでもありピアノに執着した事もあり、全部で32と、ベートーヴェンにしては多い数の奏鳴曲を書きました。モーツァルトとは異なり、ベートーヴェンはピアノの独奏曲に重きを置きました。ピアノ奏鳴曲は、ベートーヴェンの音楽の中で、交響曲と同レベルの重きが置かれていたとも考えられます。ベートーヴェンは新しい技法をピアノで試行錯誤し、先ずはピアノ奏鳴曲で実用化しました。32のピアノ奏鳴曲に、ベートーヴェンの人生そのものが包含されているのです。 第19、20番はむしろ小奏鳴曲で、作曲された年代はなんと第1〜3番の頃と同じです。初期には、やはり演奏家としての表面的な技法を重視していた事もあるのか、楽曲規模を拡大する様に4楽章編成に拘りました。第4楽章は回旋または奏鳴曲形式を置く等して、全体のバランスを考えています。また、第2番から、第3楽章にスケルッツォを明記の上導入しています。明らかにピアノ奏鳴曲を交響曲と同レベルに引き上げようとしていたのが解ります。 その内、表面的な拡大より内容の拡大を重要視し始め、3楽章編成で曲想の表現を行う様になりました。むしろピアノ協奏曲代替とも言える、カデンツァ的なコーダが「月光」当たりから発現します。そして「熱情」では交響曲第3番同様に第3楽章に第3主題を用い、奏鳴曲の変革を試みています。ピアノへの思い入れは奏鳴曲第29番で爆発しますが、むしろその後の後期3奏鳴曲で、ピアノの本領が発揮されたといえます。これでもベートーヴェンは、ピアノを不満足な楽器であると言い放ったのですから、彼の頭の中の音楽は創造を絶する宇宙規模のものが実はあったのかも知れません。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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建築中! 以下に、5の協奏曲を一覧します。 | |||||||||||||||||||||||||||||||
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変奏曲は、遁走曲と並び、重要なベートーヴェンの楽曲構成です。第9交響曲の第3楽章と第4楽章はいずれも変奏曲ですし、ピアノ奏鳴曲の第30、32番の最終楽章もそうです。 ベートーヴェンは早くから変奏曲を作曲しており、その数は沢山と推定されています。一般には20曲とされていますが、その内6曲はベートーヴェン自身が特に力を入れた曲で、構成も単なる従来変奏曲ではなく、変奏の内容に遁走曲的、奏鳴曲的な要素を取り入れる等、複雑な構成をしています。 本文建築中。 | |||||||||||||||||||||||||
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本文建築中。 | ||||||||||||||||||||||||||||
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全部で10曲あります。第5番と第9番の命名は、後の人がしました。ヴァイオリン演奏者の方には叱られるかも知れませんが、ベートーヴェンのヴァイオリン奏鳴曲は、ピアノの比重が特に重く、正にピアノとヴァイオリンの為の奏鳴曲であると言えます。 本文建築中。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||
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