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音楽に思う事 次の新音楽
The Next New Music

供も三人目になると親は大胆になり、胎教も忘れ、生後も泣き声が気にもならず長時間放っておく始末、いや面目ありません。せめて遅まきながらと今頃音楽を聴かせているのですが、偶然手元にあったベートーヴェンのピアノ奏鳴曲(ソナタ)第30〜32番を聴かせ、却って親がその良さにのめり込んでしまったりしています。
一般にベートーヴェンの音楽は、三期に分類されます。古典音楽を踏襲した初期、独自の音楽法(管弦楽技法や形式法等)を展開させて彼の人間としての情熱を表現した中期、そして彼が人間社会から離れむしろ悟り切ったあの世の心を音楽に表現した後期です。有名な曲は、後期代表作の最終交響曲(第九)以外は、エリーゼの為に、トルコ行進曲、春、悲愴、月光、熱情、皇帝、英雄、運命、田園‥‥全て初中期の曲です。ベートーヴェンのピアノ奏鳴曲は全部で32曲で、第30〜32番は典型的な後期音楽です。
ベートーヴェンは、音楽を最も大きく発展させた音楽家の一人です。技法的には、最も熟したソナタ形式を完成させた上に、変奏曲、幻想曲、ロンド(回旋曲)をも大発展させ、バッハに始まった音楽理論の全てを確立し、遂にはこれ以上の曲はできないと言われた第九交響曲を書き上げました。後世の音楽家達は、新たな音楽を創作すべく難儀したと思います。ブラームスは苦悩して第一交響曲に10年以上の歳月を費やし、ブルックナーやワーグナーは多主題で複雑構造の長大な交響曲に挑みました。いずれも第九を意識しての事だったと思います。またショパンは熟女の如く華麗な旋律を、シューベルトは乙女の如く純朴な旋律を唱い上げました。これらの美しい旋律も、ベートーヴェンの叙情的旋律が基本だったでしょう。いっそ音楽理論を変化させねばと、ドビュッシーは遂に禁止されていた旋律和声配置までも動員し絵画的音楽を打ち出し、ストラビンスキーやベルクは調性自体を消失させ無調音楽あるいは全音階音楽を創出しました。しかしこれらが楽器の発展によるものと考える人もいる様で、私にも彼等の理論上の工夫が感性的にはベートーヴェン音楽の発展版として理解可能です。ベートーヴェン以降の音楽にとって、ベートーヴェン音楽は手本であり亡霊であったのではないでしょうか。
さて、お若い方‥‥例えば30歳未満の方は、ピアノ奏鳴曲第30〜32番など聴いても面白くないでしょうし、むしろそれが当然だと思います。逆に御年配の方は一度是非お聴き下さい、そろそろお解り頂ける感動があるかもしれません。ベートーヴェン後期音楽は内容的にも卓越し、人間美ではなく、宇宙真理美を感じさせます。ピアノ奏鳴曲第30〜32番の旋律は、一般人が発想できるものとは思えません。神秘的で、神のみぞ知る人の心の本質が表現されているかに思われます。バッハのオルガン曲もそうですが、人間を抱擁し切った広大な神が感じられます。これらの音楽の前では私なぞはちっぽけな存在であり、心の憂いなど忘れてしまいます。因みに、バッハの平均率とベートーヴェンのピアノ奏鳴曲は、旧訳聖書と新訳聖書と呼ばれています。ベートーヴェン音楽と比するに、ロマン派音楽は過剰に人間的であり、近代音楽は無機的(非人間的)とも言えるでしょう。尚、主人は大胆不敵にも、「他のたいていの曲は、自分がもっと作曲法の勉強をしていれば作れたであろうから、それ程凄いとは思わない。しかしベートーヴェンの後期奏鳴曲だけは、どんなに勉強しても作れなかったろう。」等とのたまいます。失敬千番と思いながらも、言い得て妙でもあります。
旋律も和声も無い現代音楽は、私には破壊的に聞こえます。近代音楽ではまだ存在していた音の秩序が完全に崩壊し、音楽の本質からズレと解釈する人もいるぐらいです。理論の変化が不可能ならば音色を変化させようとジョン・ケージが新しい楽器奏法を試みましたが、これも一時的でした。音楽は再び古典へと逆行している様です。もう変化する余地もなく、時間にも追われて現在の売れっ子作曲家が良く用いる最終手段は、過去に好評だった曲の一部切り張り作業・・・・・これは邪道ですよね。
音楽が芸術である事は前回申し上げました。音は伝達手段で、小説における言葉と同義です。文学において新しい言葉や文法は、必要とも開発されているとも思えません。音楽においても媒介である音楽そのものを変化させる必要はないと思えます。「伝える価値のあるべき感動」が内包されている事こそ重要です。時の新音楽とは新しい感動を内包した音楽であり、その為に音楽理論や音色が必然的に変化するのは歓迎されるも、音楽理論や音色の変化そのものが目的となるは主客転倒です。ベートーヴェン以降の音楽史が、その誤りに突入しかけたかどうかは私には解りません。ただ、ベートーヴェンが表現しなかった感動は探せばあるはずであり、それを表現する事がそれ以降の作曲家達の課題だったのです。これが音楽の本質であり、次世紀の新音楽も然りです。
温古知新。この諺は、本質理解の上で新しい進歩があり得る事を教えていると考えてます。全ての進歩、即ち変化は、本質理解が大前提です。昨今の生活環境は激変し続け、人間は追従できません。この変化は本当に本質的なのでしょうか。急変は概して危険です。そんなに急がず、過去(特に文化)の良さを顧みるのもたまには良いのではないでしょうか。日本人程の優秀な種族が、もし本当に温古知新したならば、世界が羨む素晴しい日本が今頃存在していた事でしょう。


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