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ここは、「扉頁音楽に思う事」章の「エッセイ」節第5頁です。



音楽に思う事 楽譜の限界と音符間の音
Limit of Music Score and Sound between Notes

私は作曲家の主人から、楽譜に関していろいろ質問をされます。本当に解らない事を尋ねてくる場合もありますが、私がいざコンクール用あるいはコンサート用の練習をしている場合には、敢えて私の勉強の為にしばしばこう尋ねてくるのが習慣になっています。「作曲者は、なぜここでこの音符(記号)を記載したのだろうか?」
主人は作曲をするだに、楽譜がいかに不完全な意思伝達手法であるかを思い知らされるそうです。これは、楽譜ありきで演奏をする私達演奏者にとっては、何となくピントが合わない台詞です。主人の曲を弾いてあげると、よく「そこはもっと溜めて弾いて欲しいんだがな」とか、「そこは最高音の全音符が主旋律だからそれを強めに弾いて欲しいんだがな」等と、横から茶々が入ります。要するに、主人が要求の全てを上手く楽譜に記載できなかったが故に、私が楽譜即ち主人を誤解してしまった訳です。
楽譜上で客観的定量的に記載可能な事は、演奏すべき各音の絶対高さと相対長さ(音符同士の長さの比率=リズム)だけです。「溜めて」とか「これが主旋律であるので強めに」等は、対応する記号や記譜法がありませんので、一々文字で詳細に説明しなければなりません。これでは楽譜は文字で真っ黒になってしまいます。
ここで、「楽譜通りに演奏する」事の意味を考えましょう。楽譜から正確に読み取れる情報は、前述の通り各音の絶対高さと相対長さだけです。他に、強く弾く事を指示する「f:フォルテ」や快活に弾く事を指示する「Allegro:アレグロ」等の記号も記載されていますが、これは具体的にどの程度そうであるかまで唱っておらず、演奏者の独自判断に委ねられます。また、曲の調子如何では途中で微妙に速度を変化させるべきでしょうし、音符が主旋律なのか副旋律なのかによって強弱バランスも変化するでしょうが、こんな詳細まで楽譜には記載できません。楽譜はそもそも、バロック時代以前の強弱を付けられない楽器で、始終同じ速度で演奏する事を前提に考案された記録手段です。従って楽譜通りの演奏とは、「記載された記号の一般的な意味によって速度や強弱を考慮しつつ、高さとリズムを記載された通りとなる様に演奏する」事、即ち何の事はない、誠に機械的な演奏であり、オルゴールやコンピュータ自動演奏がこれに相当します。
では、楽譜通りの演奏で充分かと言うと、これは明らかに誤りです。もしそうだとすると、私達演奏家は全員失業です。ロボットに取って代わられてしまいます。何か物足りないはずです。何が物足りないのでしょうか、それは感情(心=人間性)です。
音楽とは何かを考えてみましょう。芸術の定義は、一言で「感動の表現」だと考えます。感動とは心の活動であり、人間の根源でもあります。重要ながら非画一的抽象的であるが故に客観的定量的な説明ができないものなので、これの正確な伝達は未来永劫の無理難題です。感動の伝達を文字でもって成せば文学、画像でもって成せば美術、音でもって成せば音楽となります。音楽は、音を介して感動を伝達する芸術行為なのです。
表現している内容が実は人の心だとすると、確かにそんな複雑なものは楽譜記載できるはずもありません。ですから逆に、楽譜に記載されていない処の作曲者が「本当は記述したかった」思いをどれだけ読取り聴衆に解らしめるかが、演奏者の能力の見せ処となります。これは何も楽譜に限った話ではなく、小説や絵についても同様です。この楽譜行間までも含めた解釈は、同じ体験でも感動が人によって異なる(非画一性)様に、演奏者や指揮者によって異なります。演奏者や指揮者が代わると演奏は変わる理由はここにあります。そして演奏の段階で、感動は作曲者単独のものから演奏者の心を加味した(または心で消化された)より厚みのある感動にグレードアップします。更にはそれを聴いた聴衆は、心の中で自分なりに感動を再現します。音楽とは、作曲、演奏、鑑賞の三段階を経た音の上に、それぞれの思いを重ねて感動を伝達していく芸術であります。
この音をなぜここで鳴らすのか、この旋律はなぜ創作されたのか、これらは作曲者の心の中の話で他人の絶対解らないところです。しかし一方、この音で、この旋律で、何かを感じる。作曲者はこの音で何を言いたかったのか、どんな感動を伝えたかったのか、楽譜に記載された音符や記号の間に秘められた作曲者の思いを想像する事が、むしろ活きた楽譜の解釈法なのだと主人は言いたいのでしょう。
最近、夫婦間でも、親子間でも、上っ面のコミュニケーションが増えてきた様に思えます。コミュニケーションは人間と人間との意思伝達、だからこそ内容は勿論、心も充分理解し合わねばならないと思います。作曲者の心を理解しようとしないと楽譜は上っ面の情報しか与えなくなり、演奏も上っ面になり、聴衆は感動を得る事ができません。上っ面の家族生活、友人関係、社会機構、外交交渉‥‥‥、是非とも避けたいものです。


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