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音楽に思う事 視覚と聴覚の違いについて
The Difference between Sense of Sight and Hearing

主人がドイツに留学していた時の話です。ドイツでは、そこそこ大きな市であれば、必ず一つは立派な美術館があります。その週末は暇だったので、主人は地元の美術館に行きました。すると、そこに楽器を持った音大生の集団がいたのです。引率者はその音大教授でした。息抜きですか? 主人の質問に対してその教授は、「美術の学習は音楽の学習を助ける。」と言ったのです。彼は学生を、よく美術館に連れて行くそうです。
美術の学習が音楽の学習を助ける理由は、何となく解る気がします。いずれも感情の表現手段ですからね。そんな事より、ひねくれ者の主人は音楽と美術との違いを悩んでしまったのでした。即ち、美術には「絵等の時間変化しない物」と「映画(厳密には無声動画)等の時間変化する物」の両方が存在するのに対して、音楽は全てが時の流れに乗って動きます。時間変化しない音楽とは、そもそも存在し得ないのでしょうか?
その前に、絵と映画との違いは何でしょうか? 絵は映画の時間的断片と言えます。従って同じ見るのであれば、映画を見た方が絵を見るより時間軸一次元分多い情報を得られる様に思われます。しかし本当にそうでしょうか?
目は実に不都合な感覚器で、視野の中央近傍しか正確に認識できません。両腕を広げて右手を見れば、左手は絶対に認識できないのです。視点を固定すれば、注目物の時間変化を認識できる代わりに、周囲を全く認識できません。視点を移動させると逆に、空間変化の認識(しかも同一時刻の空間認識ではないのが悲しい)はできても、個々の物体の時間変化は全く認識できません。映画を見る場合には、スクリーン上の狭い範囲だけを認識できます。視点を固定するもしないも観衆の自由ですが、結局は時間変化または空間変化の一方のみしか視覚的に認識できないのです。
ところで、建物や富士山は動きません。注目物が動かなければずっと見続ける必要がないので、安心して視点を移動できます。静止物を見る場合に限り、視覚は空間変化を認識できるのです。絵には時間情報がありませんが、それゆえ絵を見て空間情報に認識を集中できるのです。視覚的観点においては、絵も映画も情報量は同じなのです。
聴覚は視覚とは異なり、指向性を基本的には持ちません。耳が二つあるお陰で、同時に聞える音のそれぞれの発信源もある程度なら推測できます。音も普通は時間と共に変化しますので、聴覚は空間情報と時間情報の両方を認識できる事になります。これが聴覚と視覚の決定的な違いです。因にAV配線において画像で1本、ステレオ音声で2本のケーブルが必要です。これは、聴覚情報の方が視覚情報より大きい事を示す端的な例でしょう。
この世で美を感じる限り、この世の何かが美の原因となります。つまり美の原因は、空間と時間の両方の概念を持ちます。芸術作品とは、その原因を再現してそこから感じる美を人の心に再生する物です。ところがその原因を視覚的に再現しようとすると、視覚では空間情報と時間情報を同時には認識できませんので、どちらか一方の情報だけに頼る事になります。空間情報を提示して時間変化を想像させるのが絵で、時間情報に注目させて空間情報を推論させるのが映画と思います。一方聴覚でその原因を再現するならば、空間情報と時間情報を一挙に表現できるがゆえに、敢えてどちらか一方だけで再現する必要がなくなります。聴覚の観点からは、映画に対応するのは時間と共に流れる旋律で、絵に対応するのは瞬間の音の組み合わせである和音でしょう。音楽とは時間情報たる旋律と空間情報たる和音を構成要素とした、時空間的な芸術表現手法と言えます。時間情報と空間情報が両立できない視覚においては、時空間的な芸術表現手法はありません。存在しないのは時間変化しない音楽ではなかったのです。
こう考えると、さて、視覚と聴覚は一体どちらが優れているのでしょう? 百聞は一見に然ず、視覚に決まってるさ、とは少々気が早いかもしれませんね。勿論周囲の全ての物は音は出していなくとも光は必ず反射するので、視覚情報は聴覚情報より遥かに膨大なものとなります。しかしここで、視覚に頼る行動が当り前の私達は光は常にあるものと考えている事に気付きます。元々夜は暗かったのです。こうもりは自ら超音波を発して、その反射状況を聴覚により認識して耳で「見て」行動しているのです。人間だって目がなければ耳に頼って歩けるかもしれません。五感の内視覚だけが別格となったのは、実は文明が人間に光をもたらせた結果かもしれません。これぞ光害、たまには文明から離れて、日頃忘れている感覚を呼び覚ますのも人間的かもしれません。
なお主人から、学術的な補足があります。視覚は空間解像度が、聴覚は時間解像度が高い事が分かっているのだそうです。視聴覚は五感の中で人が依存しているトップ2の感覚ですが、それらが時間と空間とを分担しているとは面白い話ですね。先ほど耳は二つあるので発音源の位置をある程度なら認識できると申しましたが、やはりそれはある程度であって、視野のどこかで何かが変化した時にあれっとその位置を特定する能力と比べれば、やはり聴覚の空間解像度は低いのでしょう。また、映画等の動画は本質的には速い動きに目が付いていけない事を逆手に取った工夫であり、早口で喋る言葉を聞き漏らさない聴覚に比べて、やはり視覚の時間解像度は低いのでしょうね。詳細な説明は、社会・生体工学研究会にお任せする事にしましょう。


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